である。このような集団は初めは、任侠的な性格を持ちながら、一旦、利益または利権の
対立があればやくざ的、暴力的、残虐な性格を見せる。幇会とは日本のやくざとほぼ同じ
ような忠・義に基づく集団だが、幇会は異姓兄弟を前提としたため義を先行するのに対し、
やくざは忠を先行して親分・子分の上下関係を持つ。また幇会は、激動な時代には指導者
によって任侠的、封建的な性格な集団を、政治的な集団へと転向したケースは稀ではない。
このため幇会はやくざのような結束力がなく、内部抗争が多い。
幇会という組織の元祖は揚子江を中心とする青幇と、東南沿海の福建省・広東省を中心
とする洪幇と言われる。青幇は17−18世紀に、江蘇・浙江の両省の運輸業をする人夫が組織
した集団である。この集団が奉祀する教祖は羅清という人物である。羅清(1442−1527)は山
東省即墨県人で、人夫の仕事をしながら、無為教を創立した。無為教は一般に羅教と称す
る。
青幇は19世紀から20世紀の中ごろまで、上海で活躍した。その激動の時代に政・官・財の
人々は殆どが、幇会と関係を持った。しかし、南洋に移住した華人の先祖は大半が閩(福
建)、粤(広東)の人々であったため、閩・粤で活躍した洪幇はごく自然に南洋の華人社会
に持ち込まれた。洪幇は「紅幇」、または「洪門」とも称される。洪幇は、明末・清初に反
清復明を支えた組織だが、秘密結社の天地会、三合会、哥老会とは異なり、教祖は明の仕
官の洪英(洪盛英または殷洪盛とも称す)である。洪英は文人であったが、門下には大勢
の任侠・豪傑が集まった。しかし、清軍に追われ、1645年に戦死した。洪英の子供と門人は、
鄭成功(1624−1662年)にかくまわれた。1661年に鄭成功は、オランダ人を台湾から追い出し、
台湾を反清復明の基地として反清の志士を台湾に呼び寄せた。そして、水滸伝に描かれた
梁山泊をまねて、「金台上」と「明論堂」を設立した。(近代中国幇会内幕。河北文史資料
編輯部編、群象出版社、Pg2)。洪幇は内憂外患を経て、1734年に洪を結盟の姓にして、三八
二十一(洪という文字の氵(さんずい)を3にして、右辺の(共)の下のハを取れば、残り
の は二十一になる)を連絡の暗号にして、正式に洪幇として発足した。その後、秘密結
社として反清復明の活動を展開した。
一方、遊民を吸収した天地会または三合会という相互扶助の名目で暴力をふり、略奪、
売春、麻薬、博打などの「経済活動」を行った。天地会とは、三つの礼拝をする際に一礼
拝は天を拝し、ニの礼拝は地を拝し、三の礼拝は父母を拝することから、天地をとって命
名した。三合会とは天時、地利と人和を合せる三合を指す。いずれにしても、彼らが崇拝
する「神格化人物」は次の表に示す。
三合会はゴールドラッシュの時、アメリカ大陸への移民の波に乗って、アメリカ大陸の
華人社会に浸透した。孫文(広東省中山県に生まれた。1866−1925)が、三合会の支流の致公
堂を利用したことはよく知られている。