メリカの致公堂の親方、司徒美堂氏(広東省開平県生まれ、1868−1955)を中心として、海外
の洪門の徒党が集まって政治結社化したことが挙げられる。(致公堂は今日も8つの民主政党
(党員数60万人)の一つとして中国政府に承認される。8つの民主党派は中国国民党革命委員
会、農工民主党、台湾民主連盟、民主同盟、民主建国会、民主促進会、九三学社と致公堂
です。)同じ頃、1947年2月、シンガポールとペナンに散った洪門徒党は、マラヤ洪門致公堂
という名前で正式な団体として登録を申請したが、却下された。(鄭文輝著、新加坡私会党、
藍点図書出版社、Pg17)しかし、政治団体ではない世界洪門総会は1992年、ホノルルで成立。
1993年10月8日、台湾の陽明山で第三回会合を開催した。この盛大な会合に台湾政界の大物が
出席し、アメリカ大陸、オーストラリア、日本、韓国とアセアン諸国から、洪門会堂が5000
人も参加した。(シンガポール聯合早報、1993年10月31日)また報道によると、全世界には、
約1億人の洪門幇会のメンバーがいるということだ。しかし、1億人という数字は、あまりに
もオーバーな数字と思われる。元々華人社会の組織は割合にルーズである。洪門幇会のメ
ンバーは、血縁・地縁と業縁(業種)団体のメンバーも兼ねていることから、世界中にあ
る三縁団体のメンバーを合計して、水増ししたと思われる。
シンガポール幇会の実像と、その没落
シンガポールに流れてきた幇会の組織は、それほど通俗小説の水滸伝と三国史演義に描
かれたような忠・義の精神を持たなかった。むしろ、利権団体と見なすのが適当だと思う。
彼らは悪党に転落し、天地会と三合会の名義だけを借りて、暴力をふって強奪、略奪を行
い、麻薬や売春、博打などの経済活動に手を出し、治安を脅かした。このような集団は私
会党(SecretSociety)と称される。一般には彼らは、「三星仔(SamsengKia)」と呼ばれた。彼ら
はまったく、忠・義の思想は見られなかったのである。
百数十年の歴史しか持たないシンガポールにとって、彼らの間での利権争いの暴力沙汰
は絶え間なかった。1867年までシンガポールは、イギリス植民地だったインド政府の管轄下
にあり、あまりにも遠いシンガポールの治安に力を及ばせることは出来なかった。その年、
シンガポールは英領インド政府から離脱し、英国王の直轄植民地(Crown Colony)となって、
ロンドンの植民地大臣(Secretary ofStatefor the Colonies)の管轄下に置かれた。新しく着任した
総督、ジョージ・オルド(GeorgeOrd)は軍人出身だったことから、私会党に対して強弁政策
をとり、危険団体取締法令(AnOrdinance toProvide for theSuppressionofdangerous Societies)を成立さ
せた。その後も、華人社会を保護するという名目で、1877年に中国の方言語に堪能なピッカ
リング(Pickering)を華人保護署(Protectorateof the Chinese)の長官に任命した。同じ年に清王
朝もシンガポールにて、領事館を設置した。それ以来、華人社会は清・英の縄張り争いに
なったことは前に述べた通りである。
植民地政府は、私会党の資金の温床となる阿片、タバコ、酒、博打などの事業を、下請
け制度にしたため、商人は私会党の「保護」に頼らざるを得ない。またガンビアと胡椒の
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