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2009年1月作成。
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南洋、特にマレー半島とシンガポールの華人社会に浸透した幇会は、三合会よりも天地
会だった。同じ幇会だったが、アメリカ大陸の幇会とは若干違っていた。アメリカ大陸に
移民した華人は、既成体制のアメリカ社会においては、同じ方言グループの少数派である。
彼らは相互扶助の民族意識が強かった。一方、マレー半島とシンガポールのまだ体制が確
立されていない社会で、人口の多い華人は独自の社会を形成した。相互扶助をしつつも、
各方言グループの利害関係が交錯し、秘密結社の神秘性も加わって、百花繚乱のようにな
った。
19世紀初頭、植民地政府はまだ治安を維持する体制を確立していなかった。このため華人
社会は自己を防衛をするためには、幇会に依存しなければならなかった。例えば、1821年に
はシンガポールにはわずか20名の警察しかおらず、1832年になって初めて裁判所が初めて設
立された。1843年にトーマス・ダンマン(Thomas Dunman)が警察長官に就任してから初めて、
治安を維持する体制を確立したのである。その時まで、植民地政府は警察の代わりに幇会
を利用して、治安を維持した。このため、1850年代までは幇会は、厳然たる闇の政府のよう
な存在と言っても過言ではなかった。
幇会の活動はいつ頃、誰により、どういうルートでシンガポールの華人社会に持ち込ま
れたのだろうか。学者によると、1849年に洪門のリーダーの一人である陳正成氏は、洪門の
革命事業を推進するため国を出て、シンガポールに来た。陳正成氏は英国籍を取得して、
三合会を設立した。(鄭文輝著、新加坡私会党、藍点図書出版社、Pg23)
しかし、陳正成氏が到着する前に、マレー半島、シンガポールにはすでに幇会の活動が
存在した。例えば、1799年にペナンで発生した暴動事件は、幇会の争いと記録されている。
また1818年、マラッカにはすでに義興公司が存在した。そして、イギリスのラッフルズのシ
ンガポール上陸の先頭兵であった曹亜志(1782−1830)は、ペナンの義興公司の一人であった。
(2003年5月号)そのためラッフルズの秘書を務めたマレー人のムンシ・アブドラ・ビン・シ
ェイク・アブドル・カリル(MunsyiAbudullah Bin SheikhAbudulKadir,1796−1854)は自伝に、1824年に
Baba 系の友人の案内で、タングリン地区の沼地での幇会の入会式、阿片窟の状況、大勢の
幇会メンバーの内紛、略奪の様子などを描いているのである。(楊貴誼訳、HikayatAbudullah 、
阿都拉自伝、熱帯出版社)。
幇会活動が誰の手で持ち込まれたかは、歴史上はっきりとは記録されていない。ただし
明確に言えることは、陳正成氏がシンガポールに到着した以前に、幇会は存在したという
ことである。当時、マレー半島のペナンとマラッカには義興公司のメンバーがおり、リア
ウ諸島でガンビアを栽培していた華人社会にも幇会活動が存在していた。陳正成氏は、こ
の地域の幇会活動を立て直し、政治活動に転向させることを狙っていたのではないかと推
測される。このような政治目的のための動きの例としては、約百年後の1946年、上海にてア
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ⒸMr.Gan Siang Kiong/JCCI
メリカの致公堂の親方、司徒美堂氏(広東省開平県生まれ、1868−1955)を中心として、海外
の洪門の徒党が集まって政治結社化したことが挙げられる。(致公堂は今日も8つの民主政党
(党員数60万人)の一つとして中国政府に承認される。8つの民主党派は中国国民党革命委員
会、農工民主党、台湾民主連盟、民主同盟、民主建国会、民主促進会、九三学社と致公堂
です。)同じ頃、1947年2月、シンガポールとペナンに散った洪門徒党は、マラヤ洪門致公堂
という名前で正式な団体として登録を申請したが、却下された。(鄭文輝著、新加坡私会党、
藍点図書出版社、Pg17)しかし、政治団体ではない世界洪門総会は1992年、ホノルルで成立。
1993年10月8日、台湾の陽明山で第三回会合を開催した。この盛大な会合に台湾政界の大物が
出席し、アメリカ大陸、オーストラリア、日本、韓国とアセアン諸国から、洪門会堂が5000
人も参加した。(シンガポール聯合早報、1993年10月31日)また報道によると、全世界には、
約1億人の洪門幇会のメンバーがいるということだ。しかし、1億人という数字は、あまりに
もオーバーな数字と思われる。元々華人社会の組織は割合にルーズである。洪門幇会のメ
ンバーは、血縁・地縁と業縁(業種)団体のメンバーも兼ねていることから、世界中にあ
る三縁団体のメンバーを合計して、水増ししたと思われる。
シンガポール幇会の実像と、その没落
シンガポールに流れてきた幇会の組織は、それほど通俗小説の水滸伝と三国史演義に描
かれたような忠・義の精神を持たなかった。むしろ、利権団体と見なすのが適当だと思う。
彼らは悪党に転落し、天地会と三合会の名義だけを借りて、暴力をふって強奪、略奪を行
い、麻薬や売春、博打などの経済活動に手を出し、治安を脅かした。このような集団は私
会党(SecretSociety)と称される。一般には彼らは、「三星仔(SamsengKia)」と呼ばれた。彼ら
はまったく、忠・義の思想は見られなかったのである。
百数十年の歴史しか持たないシンガポールにとって、彼らの間での利権争いの暴力沙汰
は絶え間なかった。1867年までシンガポールは、イギリス植民地だったインド政府の管轄下
にあり、あまりにも遠いシンガポールの治安に力を及ばせることは出来なかった。その年、
シンガポールは英領インド政府から離脱し、英国王の直轄植民地(Crown Colony)となって、
ロンドンの植民地大臣(Secretary ofStatefor the Colonies)の管轄下に置かれた。新しく着任した
総督、ジョージ・オルド(GeorgeOrd)は軍人出身だったことから、私会党に対して強弁政策
をとり、危険団体取締法令(AnOrdinance toProvide for theSuppressionofdangerous Societies)を成立さ
せた。その後も、華人社会を保護するという名目で、1877年に中国の方言語に堪能なピッカ
リング(Pickering)を華人保護署(Protectorateof the Chinese)の長官に任命した。同じ年に清王
朝もシンガポールにて、領事館を設置した。それ以来、華人社会は清・英の縄張り争いに
なったことは前に述べた通りである。
植民地政府は、私会党の資金の温床となる阿片、タバコ、酒、博打などの事業を、下請
け制度にしたため、商人は私会党の「保護」に頼らざるを得ない。またガンビアと胡椒の
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ⒸMr.Gan Siang Kiong/JCCI
栽培園も、私会党の保護を受けた。水商売だけに限らず、港湾の人夫、小商店、屋台のあ
らゆる商売は、私会党に「保護費(ProtectionMoney)」を支払わなくてはいけなかった。「保護
費」の取り方は一定ではなく、私会党の流派により変わる。このような現象は1950年代まで、
続いたのである。私会党は、学校にまで活動範囲を広げ、気の弱い学生から「保護費」を
強要した。シンガポールの津々浦々に、私会党の姿が見られ、彼らは厳然たる闇社会の王
者の存在だった。
悪党である私会党のメンバーは、通称「三星(Samseng)」、または「三星仔(SamsengKia)」
と呼ばれた。即ち今日のギャングだが、年寄りは現在でも「三星仔」と呼ぶ。彼らの社会
は、「黒道」と言われる。対照的に、警察は「白道」と呼ばれる。
シンガポールの最初の私会党は方言グループに依存して活動をしたため、利権と地盤の
争いで度々方言グループの間の格闘にまで発展した。このため、第3章に述べた住み分け現
象は私会党にとって何よりも都合の良い出来事である。しかし、私会党の組織は、秘密主
義的、派閥主義(sectorism)的な生活を持つことから、内憂外患を防ぐため、各流派(sector)
を確認するには暗号か、手のジェスチャーを使った。また交渉の際に、「和戦」か「挑戦」
かを示すのも、言葉より手のジェスチャーを用いた。
犯罪集団である私会党は自分のグループに、威圧力と神秘性をつけるため、幇会の入会
式には、神壇を設けて神格化した人物に誓わせる儀式を行った。彼らは、一枚岩のように
見えるが、大半が烏合の衆である。当初は、各流派は流派ごとにグループ名をつけたが、
戦後になってからは数字で表すようになった。この点は日本のヤクザと、花札の「893」の
由来と、若干似通っている。但し、華人の私会党の数字には、「役に立たない」という意味
のヤクザとは反対に、立派な意味合いを持たせた。この点は、中華民族と大和民族との文
化差異が、闇社会文化(亜流文化)においてもはっきり見て取れることは興味深い。
1877年、ピッカリング(Pickering)の報告書により、表3に示したような私会党が記録された。
表3 1877年に記録された私会党
1.福建義興
2.潮群義興
3
. 州義興
4.義福
5.福興
6.義信
7.広福義気
8.広恵肇
9.松館
10.海山
出所:鄭文輝著、新加坡私会党、藍点図書出版 Pg20
ピッカリングの報告書によると、私会党には合計15,917人のメンバーがいた。この数字が正
確だとすると、当時の華人人口は6−7万人(華人社会―(2)参照)しかいないのに、5人に1
人は幇会の会員ということになる。そして、老人や婦人、子供を除くと、成人の男性の人
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ⒸMr.Gan Siang Kiong/JCCI
口の2人に1人は、何らかの形で幇会とつながりを持っていた。或いは、それぞれの所帯には、
必ず誰か幇会のメンバーがいたということである。このため、彼らは当時シンガポール社
会の主流と言っても過言ではなかった。この闇社会の人々が華人社会の主流を占めたこと
は、第二次世界大戦まで続いた。
初期の幇会は、派(地縁団体)とは一蓮托生の共生体であったため、シンガポールの
幇会活動も、華人人口の多数を占めた福建人と潮州人に牛耳られていた。彼らの活動地域
は、「華人社会についてー(3)」で述べた通り、方言グループにより住み分けられていた。
彼らの徒党は、輸送業に関する港湾の人夫、貨物トラック、タクシー、バス、闇タクシ
ー(白タク)の運転手、人力車、建設労働者、屋台など肉体労働者を中心とする。従って、
戦後の半植民地運動の時、彼らは組合の指導者に煽動されてストライキを行い、巻き込ま
れた市民に不便を与えた。
福建幇会であろうが、潮州幇会であろうが、広府(東)幇会であろうが、シンガポール
の私会党は戦前に名付けられた立派な流派名を持ちながら、数字派になってしまった。
独立後には、政府の強硬政策で、あらゆる私会党の温床になる「産業」が強く取り締ま
られ、法治国家となり、教育が普及し、就業人口が増えたことから、一部の「正当な」洪
門が存在した以外には、数字流派になってヤクザ的な活動を続け今日に至るのである。
数字で表したシンガポールの幇会活動は、独創的とも言える。表4のように、一般的に「08」、
「18」、「21」、「24」、「36」、「108」の数字が使われる。「08」は洪の字のさんずい(氵)を除い
て、共の字のハの部分を表す。「18」は祭礼に使った「木立斗世」の木の字を分けて十八と
なることを表している。また、「21」は洪の字のさんずい(氵)を除いて、共の上半部分だ
けを取り、
二十一となる。「24」は洪の字のさんずいの三と、共の下のハを掛けると、
24となることを表す。「36」については、洪門幇会の会規の36の誓いを表すという説と、36の
星座を表すという説がある。「108」は、水滸伝に登場した108の好漢を例えている。
数字で表された私会党は、権威を強めるために、大抵は幇会の元祖の洪門に何らかの形
でつながっていた。また、彼らは大半が、表3の初期に存在した義興公司、義福公司、海山
公司などからは独立していた。1950年代にはシンガポールの闇社会が、「08」、「24」、「海陸山」
と小坤堂に、牛耳られていたことがよく知られていた。また当時かなり有名な女性だけの
私会党があった。それは、1959年、16−20歳の水商売の女性が結成した「紅蝴蝶(RedButterfly)」
であり、一応福建の24派に属していた。不思議なことは、水商売をする女性には広東系が
多いが、福建に保護されていたことである。紅蝴蝶に属した女性らは腕、または股に赤
い蝶々の入れ墨をいれていた。彼女らは、自己防衛だけでなく、自ら格闘にも参加した。
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