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2009年1月作成。
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台湾最大暴力団「竹聯幇」トップの盛大な葬儀

 台湾の最大暴力団「竹聯幇」の精神領袖(トップ)だった陳啓礼が香港九龍の病院で亡くなり、今月に台北で盛大な葬儀が行われた。竹聯幇と並ぶ3大暴力団 の「四海幇」と「天道盟」のほか、日本の山口組や香港の新義安ら組員が参列するなど、緊迫なムードに包まれた。一部の報道には、高橋源紀や松本州弘、宮崎 学も出席したと明記されている。

 陳啓礼は中国江蘇省出身の外省人で、中学時代に竹聯幇の前身「中和幇」に加入。1968年の組織改編後、トップの総堂主となって勢力を拡大。1984 年、国民党の指令で蒋経国元総統の批判的な伝記を著した作家の“江南”こと劉宜良をサンフランシスコで殺害。この「江南事件」で無期懲役の判決を受けた が、政治的な減刑で釈放された。

 マスコミが注目したのは、人気歌手の周傑倫(ジェイ・チュウ)が葬儀会場に現れたこと。周傑倫は、江南事件で陳啓礼と共にした呉敦がプロデューサー兼で 投資する映画「カンフーダンク」に主演し、陳啓礼の長男・陳楚河(チェン・チューハー)がスクリーンデビューする。ヒロインには堀北真希やBoAも浮上したが、TWINSの“阿Sa”こと蔡卓妍(チャーリーン・チョイ)が起用されている。

 名誉葬儀委員長に国民党員ながら本土派で立法院長の王金平が務め、民進党や国民党の政治家も連ねる異様な事態。「国のために働いて逮捕された被害者」と 英雄視されるが、これに異を唱えたのが陳水扁総統である。「暴力団・マフィアのトップに立つ人物を英雄扱いするのは良い教育ではありません。特にメディア は報道を自粛すべきだ」

最後の仲裁者

 一昨年5月にも、台湾の黒社会で“最後の仲裁者”と言われた許海清の葬儀行進が金宝山一帯で行われ、竹聯幇、四海幇、天道盟はもちろん、日本の住吉一家 「野口会」の野口松男会長ら組員が参加。“マカオのカジノ王”と呼ばれる何鴻栄(スタンレー・ホー)の関係者、及び歌手の余天(ティン・ユー)や張菲 (チャン・フェイ)も駆けつけている。

 葬儀委員会には、許海清と同じ厦門(アモイ)出身で今年77歳の“長老格”にあたる天道盟の領袖・陳仁治、竹聯幇の老大・趙爾文、松聯幇で“豹兄”と呼 ばれる王知強、牛埔幇で“牛財”と呼ばれる葉明財など。これらは、“猟殺十三太保”と呼ばれる警察の極秘ファイルに含まれる13人のブラックリストたちで ある。

 許海清は身長158cmと体重35kgの倭小な体つきで、蚊のように小さい例えから“蚊兄”とも称された。国民党の推薦で台北市会議員を歴任し、ホテルやナイトクラブも経営していた。

 

(2007/11/30)
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汚職まみれの上海幇

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 上海市高級幹部たちの汚職問題が人々の話題になって久しいが、多維新聞特約記者謝冠平(9月4日、「上海三十億大案直指黃菊江沢民」)が、この問題を詳しく報道している(『多維月刊』2006年8月号)。
 
『多維月刊』2006年8月号表紙
(『多維月刊』2006年8月号表紙)
 
曰く「北京と上海の攻防戦はいまや外堀を越えて、内側に入った」、
「江沢民を守る左右の仁王は、投降するのか」、
「上海市の30億元の社会保障基金を流用した事件が判明」、
「黃菊の妻・余慧文がカゲで糸を引く」、
「黃菊の弟・黃昔曾が「福禧投資」の責任者・張栄坤の不動産開発に直接参画」、
「上海市社会保険局長祝均一、張栄坤と黃菊との親密関係は周知の事実」
---これがこの記事のリードである。
 
  江沢民の腹心ナンバーワン黄菊、その夫人余慧文、黄菊の実弟黄昔曾、不動産ブローカー張栄坤、そして社会保険の基金を預かる祝均一。上海版構造汚職事件の 主な役者が揃ったわけだ。黄菊は国務院の常務副総理であり、金融工作担当である。そして黄菊が江沢民の腹心ナンバーワンであることは周知の事実だ。ここま で役者が揃うと、この汚職摘発攻防戦が胡錦濤新執行部の江沢民前執行部に対する「宣戦布告」の意味をもつことはいうまでもあるまい。来年秋に予想されてい る第17回党大会の準備は、いよいよ人事構想を検討する段階に入っている。こうした状況において、汚職摘発攻防戦が行われることは、その帰結によって党大 会の人事配置が決定することを意味する。われわれが重大な関心寄せざるをえないのはこのためである。
   
写真:黄菊 写真:余慧文
 黄菊(写真は新華社より)  余慧文(写真は、sh.sina.com.cnより)
   
写真:張栄坤 写真:祝均一
張栄坤と夫人(写真は、www.76u.netより) 祝均一(写真は、新華社より)
   
 上海市労動・社会保障局局長、党組書記祝均一は黃菊のお気に入りの部下である。
黃菊が上海市委書記時代に、当時上海市経委副主任を務めていた祝均一を上海市労動局長に任命した。黃菊は祝均一にこう話したという。「いま国有企業改革 は大きな障害に遭遇している。列車のレールに丸太棒が置いてあるようなものだ。それをどかさないと列車は前進できない」。こうして黃菊は“丸太棒”をどか す任務を祝均一に与えた。それが“市労動局局長”の人事であった。
祝均一はこのポストに10年留まった。しかし、上海市人民代表の肩書をも持つ祝均一はいまや、社会保険基金30億元を流用したカドで監視対象にされてい る。逮捕は時間の問題であろう。謝冠平記者によると、中央紀律検査委員会は祝均一の汚職事件について事実をつかんだあと、「中央の主要領導」(この場合、 胡錦濤らを指す)の許可を得て、7月16日に上海市委書記陳良宇および上海市長韓正を北京に呼びつけて協議した。これに対して陳良宇書記と韓正市長はとも に「中央が法に照らして事件を捜査すること」を支持すると表明した。こうして7月17日、中央紀律検査委員会の担当者が上海に到着し、祝均一およびもう一 人の社会保障基金担当の処長を監視対象に指定した。中央紀律検査委員会の担当者はいま祝均一らを上海から江蘇省某所に移し、審查を続けているという。
中央からの調査チームが来たことによって、上海指導部はてんやわんやの大騒ぎだ。上海市党政幹部が外省へ出張する「学習団派遣」は取り消された。祝均一 が軟禁されたのと同時に、祝が投資した「福禧投資控股有限公司」の「董事局主席」で、第十屆全国政協委員、上海市工商聯副会長を兼ねる張栄坤およびその夫 人も中央の関係部門に軟禁された。張栄坤は「上海慈善基金会名譽副会長」を兼ねており、黃菊夫人余慧文は、この基金会の実務工作に責任を負う副会長であ る。余慧文はまた上海および浙江一帶の成り金たちとつきあいが深く、成り金たちは基金会への献金を通じて余慧文と“顔なじみ”であり、いわばグルである。
このような人脈を通じて社会的地位を高めた張栄坤はいまや余慧文と深い関係にあり、ここから張は隨時、黃菊と電話で話ができる間柄だという。張の金儲け プロジェクトは、このような人脈網を通じて動いている。一端話が決まると、銀行は積極的に融資してくれる。こうして“リスクなし、金儲けの保証つき”のプ ロジェクトが闊歩する。張栄坤のこのような金儲けモデルは、まさに羨望の的であり、“張栄坤モデル”と呼ばれている。
実は張は黃菊との關係のほかに、黃菊の黒幕江沢民とも特殊な關係をもつという。数年前、張栄坤が“上海・杭州ハイウェー”を買収したとき、張栄坤が江沢 民辦公室に電話をかけたのを目撃した人物がいる。このような関係を見せつけると、銀行は自分の方から融資を申し出るという仕組みである。今回の30億元事 件が暴露された後、上海の各銀行はすでに通知を受けており、張栄坤グループの公司に対して、どれだけ融資したかを報告させられている。
今年38歲の張栄坤は、江蘇省蘇州出身で、華東師範大學を卒業し、金融問題で修士の学位を得た。九十年代初め、張栄坤は江蘇で「沸點投資發展公司」を設 立したが、登録資本は三千万元であり、主として食糧品加工、家俱製造に従事していた。2002年初め、張栄坤は上海浦東に「福禧投資控股有限公司」を登記 した。登録資本は五億元であった。同年三月末、福禧公司は32億元で「上海城市建設投資發展総公司」から“上海・杭州ハイウェー”公司の上海区間運営の 99.35%の株券を譲り受けたが、これは民営企業がインフラ領域に進出した嚆矢であった。2004年に張栄坤は20億の資產を記録し、中国億万長者番付 の39位に躍進し、上海地区の政商として話題になった。
上海ビジネス界の消息によると、張栄坤は中央高層に有力な黒幕がいるために“上海・杭州ハイウェー”の権益を買収できたという。ズバリ言えば背後で黃菊 が幫助した結果にほかならない。こうして張栄坤の「福禧投資公司」は”上海・杭州ハイウェー”の上海区間の30年間の運営権を得たのであった。
2003年に張栄坤は50億元を投資して、“嘉興・金華ハイウェー”の経営権を買収した。この公路は上海に新設されるF1オートレース場につながる。張 栄坤のもう一つの成功物語、成功モデルといわれる。こうした“保證つき金儲け”、“リスクなしのビジネス”の誘惑下で、上海社保局長祝均一は黃菊という黒 幕を頼りにしさえすれば、御身安泰と考えた。こうして30億元にものぼる社保基金を張栄坤に渡したわけだ。これは中央紀律検査委員会によれば“投資とはい えないだけでなく、いかなる担保もとらずに支出したのであるから、重大な規律違反事件”であった。中央紀律検査委員会はいま祝均一の背後関係を調べ、黃菊 夫人余慧文や黄菊の実弟・黃昔與と祝均一および張栄坤との關係を捜査しているという。
さて黃菊は2006年1月中旬以後、マスコミから姿を隠した。黃菊は今年春節前の健康診断で膵臓癌が発見されたからといわれる。しかし6月5日に突然、 他の八名政治局常務委員とともに、中国科學院および中国工程院の「院士大会」に姿を現し、その後もしばしば姿を現している。消息筋によれば、黃菊の病情は 確かであり、病状は進行している。にもかかわらず、彼が姿を現すのは、妻や実弟、部下などへの激励の意味か、それともボス江沢民にまで摘発が及ぶのを防ぐ ためか。謝冠平記者はこう疑問を投げかけて、この記事を結んでいる。
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  上海の汚職がらみでは、もう一つの話題がある。それは上海随一の富豪といわれる周正毅が上海提籃橋監獄に服役中に「教導員」を担当していた俞金寶が8月 22日に軟禁された事件である。周正毅は2004年6月1日に株式売買価格を操作した罪で懲役3年の刑を科された。そして2003年5月26日から 2006年5月26日に出獄するまで監獄暮らしを味わった。
周正毅事件は、この事件に連座した中国銀行前上海支店長劉金寶が2005年8月12日に汚職罪で死刑(執行猶予つき)判決されたのと較べて、軽いことが話題になっていた。
それだけではない。獄中生活も「教導員」俞金寶の周到な手配りのおかげで、快適そのものであったようだ。まさに監獄のなかも金次第だ。大物周正毅に対して、そのような特殊な待遇を保証していた獄卒がいま審査されている。
このような一連の事件をどう読むべきか。中国政治史にみる汚職の歴史は深く、長い。江沢民時代には、北京市書記陳希同の汚職が摘発されたことは、記憶に 新しい。しかし、上海市の汚職は、江沢民の腹心ナンバーワン黄菊とその夫人、および黄菊の実弟にまで及ぶもので、黄菊をこれまで重用してきた江沢民の政治 責任は免れないし、江沢民一族もこれに深く関与している形跡がある。つまり黄菊が汚職で儲けた金がどこへ行ったかの問題だ。黄菊は上海市長・書記の時代 に、上海市のためにはよいことは何もやらず、ひたすら江沢民一族に尽くしてきた、とは上海雀がしばしば強調してきたことである。
上海幇の構造汚職事件は、江沢民のお膝元で、しかも江沢民が利益を享受する形で行われてきたことが重大であろう。これが江沢民長期政権の帰結である。私 は江沢民が天安門事件直後に抜擢された直後からこの人物に大国・中国を指導する器量がないことをしばしば批判してきたが、私の予想は遺憾ながら的中してい たように思われる。日本の政治もデタラメだが、そのような日本と子供のケンカを続けている中国もまた深い病に犯されているように見える。
 
南洋、特にマレー半島とシンガポールの華人社会に浸透した幇会は、三合会よりも天地
会だった。同じ幇会だったが、アメリカ大陸の幇会とは若干違っていた。アメリカ大陸に
移民した華人は、既成体制のアメリカ社会においては、同じ方言グループの少数派である。
彼らは相互扶助の民族意識が強かった。一方、マレー半島とシンガポールのまだ体制が確
立されていない社会で、人口の多い華人は独自の社会を形成した。相互扶助をしつつも、
各方言グループの利害関係が交錯し、秘密結社の神秘性も加わって、百花繚乱のようにな
った。
19世紀初頭、植民地政府はまだ治安を維持する体制を確立していなかった。このため華人
社会は自己を防衛をするためには、幇会に依存しなければならなかった。例えば、1821年に
はシンガポールにはわずか20名の警察しかおらず、1832年になって初めて裁判所が初めて設
立された。1843年にトーマス・ダンマン(Thomas Dunman)が警察長官に就任してから初めて、
治安を維持する体制を確立したのである。その時まで、植民地政府は警察の代わりに幇会
を利用して、治安を維持した。このため、1850年代までは幇会は、厳然たる闇の政府のよう
な存在と言っても過言ではなかった。
幇会の活動はいつ頃、誰により、どういうルートでシンガポールの華人社会に持ち込ま
れたのだろうか。学者によると、1849年に洪門のリーダーの一人である陳正成氏は、洪門の
革命事業を推進するため国を出て、シンガポールに来た。陳正成氏は英国籍を取得して、
三合会を設立した。(鄭文輝著、新加坡私会党、藍点図書出版社、Pg23)
しかし、陳正成氏が到着する前に、マレー半島、シンガポールにはすでに幇会の活動が
存在した。例えば、1799年にペナンで発生した暴動事件は、幇会の争いと記録されている。
また1818年、マラッカにはすでに義興公司が存在した。そして、イギリスのラッフルズのシ
ンガポール上陸の先頭兵であった曹亜志(1782−1830)は、ペナンの義興公司の一人であった。
(2003年5月号)そのためラッフルズの秘書を務めたマレー人のムンシ・アブドラ・ビン・シ
ェイク・アブドル・カリル(MunsyiAbudullah Bin SheikhAbudulKadir,1796−1854)は自伝に、1824年に
Baba 系の友人の案内で、タングリン地区の沼地での幇会の入会式、阿片窟の状況、大勢の
幇会メンバーの内紛、略奪の様子などを描いているのである。(楊貴誼訳、HikayatAbudullah 、
阿都拉自伝、熱帯出版社)。
幇会活動が誰の手で持ち込まれたかは、歴史上はっきりとは記録されていない。ただし
明確に言えることは、陳正成氏がシンガポールに到着した以前に、幇会は存在したという
ことである。当時、マレー半島のペナンとマラッカには義興公司のメンバーがおり、リア
ウ諸島でガンビアを栽培していた華人社会にも幇会活動が存在していた。陳正成氏は、こ
の地域の幇会活動を立て直し、政治活動に転向させることを狙っていたのではないかと推
測される。このような政治目的のための動きの例としては、約百年後の1946年、上海にてア
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ⒸMr.Gan Siang Kiong/JCCI
メリカの致公堂の親方、司徒美堂氏(広東省開平県生まれ、1868−1955)を中心として、海外
の洪門の徒党が集まって政治結社化したことが挙げられる。(致公堂は今日も8つの民主政党
(党員数60万人)の一つとして中国政府に承認される。8つの民主党派は中国国民党革命委員
会、農工民主党、台湾民主連盟、民主同盟、民主建国会、民主促進会、九三学社と致公堂
です。)同じ頃、1947年2月、シンガポールとペナンに散った洪門徒党は、マラヤ洪門致公堂
という名前で正式な団体として登録を申請したが、却下された。(鄭文輝著、新加坡私会党、
藍点図書出版社、Pg17)しかし、政治団体ではない世界洪門総会は1992年、ホノルルで成立。
1993年10月8日、台湾の陽明山で第三回会合を開催した。この盛大な会合に台湾政界の大物が
出席し、アメリカ大陸、オーストラリア、日本、韓国とアセアン諸国から、洪門会堂が5000
人も参加した。(シンガポール聯合早報、1993年10月31日)また報道によると、全世界には、
約1億人の洪門幇会のメンバーがいるということだ。しかし、1億人という数字は、あまりに
もオーバーな数字と思われる。元々華人社会の組織は割合にルーズである。洪門幇会のメ
ンバーは、血縁・地縁と業縁(業種)団体のメンバーも兼ねていることから、世界中にあ
る三縁団体のメンバーを合計して、水増ししたと思われる。
シンガポール幇会の実像と、その没落
シンガポールに流れてきた幇会の組織は、それほど通俗小説の水滸伝と三国史演義に描
かれたような忠・義の精神を持たなかった。むしろ、利権団体と見なすのが適当だと思う。
彼らは悪党に転落し、天地会と三合会の名義だけを借りて、暴力をふって強奪、略奪を行
い、麻薬や売春、博打などの経済活動に手を出し、治安を脅かした。このような集団は私
会党(SecretSociety)と称される。一般には彼らは、「三星仔(SamsengKia)」と呼ばれた。彼ら
はまったく、忠・義の思想は見られなかったのである。
百数十年の歴史しか持たないシンガポールにとって、彼らの間での利権争いの暴力沙汰
は絶え間なかった。1867年までシンガポールは、イギリス植民地だったインド政府の管轄下
にあり、あまりにも遠いシンガポールの治安に力を及ばせることは出来なかった。その年、
シンガポールは英領インド政府から離脱し、英国王の直轄植民地(Crown Colony)となって、
ロンドンの植民地大臣(Secretary ofStatefor the Colonies)の管轄下に置かれた。新しく着任した
総督、ジョージ・オルド(GeorgeOrd)は軍人出身だったことから、私会党に対して強弁政策
をとり、危険団体取締法令(AnOrdinance toProvide for theSuppressionofdangerous Societies)を成立さ
せた。その後も、華人社会を保護するという名目で、1877年に中国の方言語に堪能なピッカ
リング(Pickering)を華人保護署(Protectorateof the Chinese)の長官に任命した。同じ年に清王
朝もシンガポールにて、領事館を設置した。それ以来、華人社会は清・英の縄張り争いに
なったことは前に述べた通りである。
植民地政府は、私会党の資金の温床となる阿片、タバコ、酒、博打などの事業を、下請
け制度にしたため、商人は私会党の「保護」に頼らざるを得ない。またガンビアと胡椒の
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ⒸMr.Gan Siang Kiong/JCCI
栽培園も、私会党の保護を受けた。水商売だけに限らず、港湾の人夫、小商店、屋台のあ
らゆる商売は、私会党に「保護費(ProtectionMoney)」を支払わなくてはいけなかった。「保護
費」の取り方は一定ではなく、私会党の流派により変わる。このような現象は1950年代まで、
続いたのである。私会党は、学校にまで活動範囲を広げ、気の弱い学生から「保護費」を
強要した。シンガポールの津々浦々に、私会党の姿が見られ、彼らは厳然たる闇社会の王
者の存在だった。
悪党である私会党のメンバーは、通称「三星(Samseng)」、または「三星仔(SamsengKia)」
と呼ばれた。即ち今日のギャングだが、年寄りは現在でも「三星仔」と呼ぶ。彼らの社会
は、「黒道」と言われる。対照的に、警察は「白道」と呼ばれる。
シンガポールの最初の私会党は方言グループに依存して活動をしたため、利権と地盤の
争いで度々方言グループの間の格闘にまで発展した。このため、第3章に述べた住み分け現
象は私会党にとって何よりも都合の良い出来事である。しかし、私会党の組織は、秘密主
義的、派閥主義(sectorism)的な生活を持つことから、内憂外患を防ぐため、各流派(sector)
を確認するには暗号か、手のジェスチャーを使った。また交渉の際に、「和戦」か「挑戦」
かを示すのも、言葉より手のジェスチャーを用いた。
犯罪集団である私会党は自分のグループに、威圧力と神秘性をつけるため、幇会の入会
式には、神壇を設けて神格化した人物に誓わせる儀式を行った。彼らは、一枚岩のように
見えるが、大半が烏合の衆である。当初は、各流派は流派ごとにグループ名をつけたが、
戦後になってからは数字で表すようになった。この点は日本のヤクザと、花札の「893」の
由来と、若干似通っている。但し、華人の私会党の数字には、「役に立たない」という意味
のヤクザとは反対に、立派な意味合いを持たせた。この点は、中華民族と大和民族との文
化差異が、闇社会文化(亜流文化)においてもはっきり見て取れることは興味深い。
1877年、ピッカリング(Pickering)の報告書により、表3に示したような私会党が記録された。
表3 1877年に記録された私会党
1.福建義興
2.潮群義興
3
. 州義興
4.義福
5.福興
6.義信
7.広福義気
8.広恵肇
9.松館
10.海山
出所:鄭文輝著、新加坡私会党、藍点図書出版 Pg20
ピッカリングの報告書によると、私会党には合計15,917人のメンバーがいた。この数字が正
確だとすると、当時の華人人口は6−7万人(華人社会―(2)参照)しかいないのに、5人に1
人は幇会の会員ということになる。そして、老人や婦人、子供を除くと、成人の男性の人
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ⒸMr.Gan Siang Kiong/JCCI
口の2人に1人は、何らかの形で幇会とつながりを持っていた。或いは、それぞれの所帯には、
必ず誰か幇会のメンバーがいたということである。このため、彼らは当時シンガポール社
会の主流と言っても過言ではなかった。この闇社会の人々が華人社会の主流を占めたこと
は、第二次世界大戦まで続いた。
初期の幇会は、派(地縁団体)とは一蓮托生の共生体であったため、シンガポールの
幇会活動も、華人人口の多数を占めた福建人と潮州人に牛耳られていた。彼らの活動地域
は、「華人社会についてー(3)」で述べた通り、方言グループにより住み分けられていた。
彼らの徒党は、輸送業に関する港湾の人夫、貨物トラック、タクシー、バス、闇タクシ
ー(白タク)の運転手、人力車、建設労働者、屋台など肉体労働者を中心とする。従って、
戦後の半植民地運動の時、彼らは組合の指導者に煽動されてストライキを行い、巻き込ま
れた市民に不便を与えた。
福建幇会であろうが、潮州幇会であろうが、広府(東)幇会であろうが、シンガポール
の私会党は戦前に名付けられた立派な流派名を持ちながら、数字派になってしまった。
独立後には、政府の強硬政策で、あらゆる私会党の温床になる「産業」が強く取り締ま
られ、法治国家となり、教育が普及し、就業人口が増えたことから、一部の「正当な」洪
門が存在した以外には、数字流派になってヤクザ的な活動を続け今日に至るのである。
数字で表したシンガポールの幇会活動は、独創的とも言える。表4のように、一般的に「08」、
「18」、「21」、「24」、「36」、「108」の数字が使われる。「08」は洪の字のさんずい(氵)を除い
て、共の字のハの部分を表す。「18」は祭礼に使った「木立斗世」の木の字を分けて十八と
なることを表している。また、「21」は洪の字のさんずい(氵)を除いて、共の上半部分だ
けを取り、
二十一となる。「24」は洪の字のさんずいの三と、共の下のハを掛けると、
24となることを表す。「36」については、洪門幇会の会規の36の誓いを表すという説と、36の
星座を表すという説がある。「108」は、水滸伝に登場した108の好漢を例えている。
数字で表された私会党は、権威を強めるために、大抵は幇会の元祖の洪門に何らかの形
でつながっていた。また、彼らは大半が、表3の初期に存在した義興公司、義福公司、海山
公司などからは独立していた。1950年代にはシンガポールの闇社会が、「08」、「24」、「海陸山」
と小坤堂に、牛耳られていたことがよく知られていた。また当時かなり有名な女性だけの
私会党があった。それは、1959年、16−20歳の水商売の女性が結成した「紅蝴蝶(RedButterfly)」
であり、一応福建の24派に属していた。不思議なことは、水商売をする女性には広東系が
多いが、福建に保護されていたことである。紅蝴蝶に属した女性らは腕、または股に赤
い蝶々の入れ墨をいれていた。彼女らは、自己防衛だけでなく、自ら格闘にも参加した。
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