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ウィキ引用
青幇
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
青幇(ちんぱん)は中国の秘密結社。元々は職業ギルドだったが時代が下がるにつれ解放前の中国の暗黒面を代表する犯罪組織になった。上海を牛耳りアヘン、賭博、売春を主な資金源とした。その中でもアヘンを最大の資金源とし一時は中国全土の取引を支配した。
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歴史 [編集]
組織の起源 [編集]
鎖国をしていた清は、海禁政策を採っており江南地方から北京へ米を運ぶのに大運河を使用していた。船で米を運ぶ水夫たちは、その道中の困難さから必然的に団結し羅教に影響されて結社をつくった。最初は安清幇、後に青幇と呼ばれるこの組織は愛国的であり政府に協力的であることを評傍したが、そもそも中国では結社禁止であり政府は警戒していた。北京に米を運んだ後、帰りの空船に禁制品である塩やアヘンを詰め込み密売しては利益を得ていたことも原因である。アヘン戦争後、五港が開港し上海経由で物資が海上輸送されるようになると水夫たちは職を失い路頭に迷うようになった。こうした状況に対処するために組織を維持し上海に進出していく。
巨大犯罪組織 [編集]
一方で上海は、列強諸国の租界が誕生し商工業が急速に発展した。それにつられて中国各地から移民、流民が押し寄せてきた。彼らが出身地ごとに団結し組織を結成した。七つあったその組織は統合が進み最終的に紅幇と青幇が残り裏社会を支配するようになった。当時の上海の人口300万人のうち四分の一が両組織に属していたといわれる。そのうち青幇はフランス租界の娯楽施設「大世界」の一帯を本拠地にしていた。この「大世界」は合法、非合法のあらゆる快楽が味わえる総合娯楽センターで1917年に親分の黄金栄が建設した。
三人の頭目 [編集]
当時の青幇の大親分の黄金栄、杜月笙、張嘯林の三人は上海では誰も知らないものがいなかった。特に杜月笙は最も勢力が強くゴッドファーザー的な存在だった。1925年に大公司を設立し町のアヘン市場の独占を図り1930年代には事実上、中国全土のアヘン流通を支配していた。
軍閥が割拠していた頃は、支配されていたが国民党が北伐を開始し1927年に到着すると司令官の蒋介石に接近し、4月12日の上海クーデターに協力して多数の共産党員を処刑した。それ以前より蒋介石と義兄弟の契りを交わし交友を深めていたとされる(蒋介石も青幇の一員であったとする説もある)杜月笙は、この功績から4月18日の南京国民政府成立時に将軍の地位を与えられた。1929年には銀行を設立し、フランス租界内の莫大な資金を一手に吸い上げた。
しかし、日中戦争の激化、1937年の日本軍の上海占領が起こると杜月笙は蒋介石に従い脱出したが張嘯林はそのまま留まり日本に協力し、その為暗殺された。第二次世界大戦終結後の1945年、杜月笙は上海に戻ったが政府の青幇への取り締まりもあってかつての勢いをなくし国共内戦が共産党の勝利に終わった1949年に香港に脱出した。本土の犯罪組織は完全に取り押さえられ、杜月笙と一緒に香港に到着した青幇も、1951年に彼がアヘン中毒のために死ぬと力を失い、1950年代半ばには消滅した。
なお、青幇は組織としては消滅したものの、現在の香港や台北の黒社会には青幇の要素が色濃く残ることから、青幇は内部分裂をしたのだという説・組織の生き残りのために分散させたのだという説・すべてを統括する形で青幇は残存するという説も一部の研究者の間で考えられ、実際に華僑のなかにもそのような証言が見られることから、新中国建国に伴う「解放」後の経緯については、不明確な部分が多い。
登場作品 [編集]
漫画 [編集]
- 蒼天の拳 主人公が組織の協力者という設定になっている。
ウィキ引用。
四海幇
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
四海幇(しかいほう、スー・ハイ・パン)は、台湾全域及び中国を拠点に活動する黒社会組織(暴力団)。構成員数は不明であるが、総構成員は数万人とも言われている。台湾三大黒社会の一つとして竹聯幇、天道盟と並び称されている。
四海幇は数度の解散と組織改革を経て、結成当初に比べその勢力は小さくなっている。現在は表面上解散をしている四海幇であるが、組織はなおも勢力を有しており、秘密裏な活動を行っている。現在組織の締め付けを目的に長老構成員による組織改革が積極的に行われている。
略史 [編集]
1953年、馮祖語は学生及び眷村の仲間とともに「四海兄弟(四海同胞)」を合言葉に四海幇を結成した。当初は弱小組織であり、台北市西門町一帯を拠点に活動したが、構成員に政治家要人の子弟が参加したことより強固な基礎を築き上げた。数年後には各地の黒社会構成員及び外国人に対し勧誘を行い構成員を増加させ、1960年には1万人もの構成員を有すようになり、台湾当局の取り締まり対象となった。
1962年、台湾当局の取り締まりにより四海幇は解散の危機に瀕し、また組織の内部分裂や抗争により危機的な情況となった。他の黒社会組織は四海幇の弱体化に乗じ四海幇の勢力範囲に食指を伸ばし始めた。その代表的なのが竹聯幇であり、この時勢力を急速に拡大させている。勢力が衰退した四海幇は組織の維持がかなわずこの時に一度組織解散を迎えた。
1971年になると、劉偉民、陳永和、蔡冠倫により四海幇再興を目指す活動が再開された。他の黒社会組織と抗争を行い自己の勢力圏を確保した四海幇は組織再興を宣言、劉偉民を幇主とした。
1986年、劉偉民が訪問先の日本で射殺される事件が発生した。その後蔡冠倫が権力を掌握したが、警察の取締りと自ら出馬した立法委員選挙での2度の落選を受け組織の弱体化を招いた。その後第3代幇主となった陳永和は組織の建て直しを図り、その勢力を拡大した後に趙経華に幇主の座を禅譲した。しかしその実態は陳永和の院政であり、四海幇を企業化させ更に勢力を強大なものとした。
1996年、陳永和と幹部構成員である藺磊洽は自ら経営するレストランで射殺される事件が発生した。社会問題化したこの事件は台湾当局の取締活動へとつながり、趙経華と副幇主である楊光南はそれぞれアメリカと中国に逃亡している1997年2月3日、四海幇幹部構成員の董克誠は 副幇主を自称、7名の構成員と共に台北市刑事警察大隊に赴き、幇主趙経華の代理人に名義で四海幇の解散を宣言、アメリカ滞在中の趙経華も幇主を辞任するこ とを宣言した。幇主辞任及び幹部構成員の国外逃亡により四海幇は正常な組織運営が不可能となった。この情況下で中国に滞在していた楊光南が幇主代行に就任 した。この解散は当局の監視を逃れるための方策であり、新しい体制の下活動は従来どおり続けられた。
楊光南は四海幇本部を上海に移転させ、中国を活動拠点とする組織に改編し、現在でも中国で大きな勢力を有す黒社会であった。しかし2000年11月、楊光南が上海当局で逮捕、12月6日に台湾に護送されると四海幇は再び危機を迎えることとなった。
実質的な幇主の逮捕により賈潤年が幇主に就任し組織運営に当った。しかし2003年末に賈潤年の息子が犯した失敗を引責する形で幇主を辞している。
現在四海幇の幇主は不在の状態であり、賈潤年と楊光南が精神的な領袖となっている。組織運営の実務は幹部構成員によって処理されている。
歴代幇主 [編集]
関連項目 [編集]
カイホウの幇主ってなんだかわからないままだったけれども、ウィキに解説が載っている。
丐幇
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
丐幇(かいほう、簡体字:丐帮、拼音: gàibāng )は、中国の大衆小説である武侠小説に登場する、乞食によって構成される幇会である。
乞食たちの生活面における共同体、互助組織である一方、独自の武術を身につけ、義侠の行いを旨とし、武林における勢力をなしている。構成員は天下に広く存在し、江湖の巨大勢力とされている。
丐幇は、基本的には正義の組織と位置づけられ、宋代や元代、清代など異民族の侵略に晒されている動乱期は、愛国色、民族主義色を強めて、侵略民族への抵抗に参加する傾向が強い。一方、特定の時代を設定していない、歴史色の薄い作品の中では、武林の覇権を巡ってしばしば他の門派と争う。
金庸作品における丐幇 [編集]
丐幇は、『射雕英雄伝』『神鵰侠侶』『倚天屠龍記』の三部作や『天龍八部』といった金庸作品において、物語の重要な位置を占めている。その中では頭たる幇主は、その証として代々「打狗棒」という竹の棒と、それを用いた「打狗棒術」という武術を受け継ぐことになっている。また、構成員はそれぞれ地位に応じた数の袋を持つとされている。
歴代幇主 [編集]
- 北宋
- 南宋
- 元
- 史火龍 (倚天屠龍記)
- 史紅石 (倚天屠龍記)
- 明
- 解風 (笑傲江湖、※年代不詳なので推測)
- 清